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豊町の紹介


呉市豊町は、大崎下島など6島によって構成され、市の中心部とは直線で約30kmの距離にあります。
瀬戸内海国立公園にも指定されるなど多島美が美しい地域で、歴史の見える丘公園からは美しいまちなみを始め、周辺の島々や本土、四国までを一望することができます。
人口は約2,100人、面積は14.08平方キロメートルで、大長・御手洗・久比・沖友・三角の5つの集落により形成されています。
地域の基幹産業であるミカン栽培は、明治中頃に早生温州みかんの導入に成功したのが始まりです。先駆者の努力とみかん栽培に適した土壌・気候の好条件が重なり、次第に産地としての名声が高まって、 現在では「大長みかん」の名で全国的に有名な一大ブランドを確立しています。
また、江戸時代中期から明治初期にかけて、瀬戸内海の沖乗り航路の「潮待ち・風待ち」の港町として栄えた御手洗地区は、歴史的な町並みや「若胡子屋跡」「七卿落遺跡」などを始めとする歴史的・文化的に貴重な史跡を有することから、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

大長みかん

大長みかんを収穫しているようす
「耕して天に至る」といわれた大崎下島の豊町は、島全体に段々畑が広がり、秋にはみかんがたわわに実ります。収穫期にみかん色に染まるこの島は、別名「黄金の島」と呼ばれてきました。みかん畑は島内の耕作地だけでは足りず、近隣の島々にまで広がり、それらの島々への行き来に利用された「農船」は、最盛期の昭和30年代には400艘以上を数えました。
「大長みかん」は1903(明治36)年に「青江早生」を本格導入したのが始まりで、収穫時期によって極早生・早生・普通(中生・晩生)と種類が分けられます。温暖な気候、水はけの良い段々畑、日当たりの良さに加えて、第二の太陽光ともいえる海からの照り返しがあるという好条件に恵まれた豊町。ここで作られるみかんは、コクがあり甘くておいしいと評判になり、やがて「大長みかん」という一大ブランドに成長し、現在でも出荷量は広島県一を誇ります。
「黄色いダイヤ」と呼ばれたみかんで繁栄した豊町には、今なお「みかん御殿」と呼ばれる長屋門を構えた古くてりっぱな屋敷が並んでいます。

大長レモン

大長レモン
「大長みかん」があまりにも有名な豊町ですが、実は知る人ぞ知る「国産レモン」の発祥地でもあります。大長みかんのもととなった「青江早生」よりも、むしろレモンの導入の方が早く、こちらも栽培の歴史は100年以上となります。
レモンは、年間を通じて気温の変化が少なく雨量の少ない気候を好むことから、温暖小雨の大崎下島の環境が栽培には適しているといわれています。同じ島内でも、みかん栽培に適している土地とレモン栽培に適している土地は異なり、風に当てないことがレモン栽培の絶対条件となるため、そうした条件に合う土地で栽培しながら、さらに防風林を設置するなどの対策をとっています。最近は国産レモンの消費が伸びて作付面積が68ヘクタールに広がり、出荷量は1,900トンにも上ります。
JA広島ゆたかによると、何より気をつかうのは「安全面」。レモンの成長にあわせ、極力影響を与えないと判断した時にしか、農薬は使用しないそうです。いつ、どんな農薬を、どのくらい使用するかを決めた「防除暦」を作成し、皆でそれを守るという念の入れようです。また、レモンのおいしさを保つために、収穫時期や冷蔵管理の方法などの研究にも余念がありません。

農船

農船
豊町では、古くから島外に耕作地を求めて出かける「出作」が行われてきました。大崎上島や大三島、岡村島など島外の畑への行き来や収穫物の運搬には、「農船」という5トン未満の木造船が使われ、昭和後期まで、大長地区の南堀と北堀にはびっしりと農船が浮かんでいました。
農船は農家にとってなくてはならない存在でしたが、時代とともにトラックやフェリーへと輸送手段が移り変わり、現役の農船はごくわずかとなりました。現在、大長北堀の横には、2003 (平成15) 年に市の有形民俗文化財に指定された木造農船「大長丸」が、陸揚げのうえ展示されています。

歴史の見える丘公園

歴史の見える丘公園(その1) 歴史の見える丘公園(その2)
御手洗地区を見下ろす高台に設けられた展望公園です。
頂上の展望台付近は、特産品であるみかんの段々畑をイメージした石組みで整備されており、みかん畑の間を通る遊歩道からは、四季折々の風情が楽しめます。その眼下には御手洗の町並み保存地区が広がるとともに、本州の竹原市方面、瀬戸内しまなみ海道の来島大橋、愛媛県今治市や松山市の市街地などを遠望することができます。
徒歩では、ふるさと学園と住吉地区の2ヵ所から続く遊歩道を登ると、それぞれ約20分で到着します。
※無料駐車場あり (約10台)

御手洗地区

常磐町の街並み
御手洗地区は、17世紀の中頃に「風待ち・潮待ち」の港町として形成されて以来、江戸時代の約200年間を経て昭和初期に至るまで、瀬戸内海交通の中継港として栄えました。
その発展とともに序々に埋め立てられていった地区内には、大小の商家・茶屋・船宿・住宅・神社・寺院などが混在し、集落全体に小路が網の目のように巡らされています。また、大波止・高燈籠・石垣護岸・雁木など、港町特有の土木的建造物が当時のまま現存するほか、町並みの中に明治以降の洋風建築や昭和初期の看板建築が点在するなど、時代時代に応じた発展の痕跡を今も集落内に留めています。
このように、御手洗には江戸時代から昭和初期に建てられた伝統的な形式をとどめる民家が数多く残っており、1994 (平成6) 年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

史跡・旧跡案内

  1. 恵美須神社
  2. 御手洗天満宮
  3. 若胡子屋跡
  4. 千砂子波止
  5. 住吉神社
  6. 高燈籠
  7. 船宿 (三軒長屋)
  8. 旧柴屋住宅
  9. 七卿落遺跡
  10. 旧金子家住宅
  11. 満舟寺石垣
  12. 満舟寺
  13. 誰彼塚
  14. 樗堂墓
  15. 亀趺墓
  16. 大東寺
  17. おいらん公園
  18. 火の車の塔
  19. 星野文平碑
  20. 乙女座