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満舟寺石垣/豊地区


満舟寺石垣 旧御手洗小学校の案内看板

由来

地元の伝承では、1585 (天正13) 年の豊臣秀吉による四国攻めの際、前線基地として加藤清正が築いたものとされています。一説には、それ以前、伊予国守護河野氏に属していた来島村上氏が御手洗にある「海関」の警護にあたったとされることから、その警護所との関係も取りざたされています。
いずれにしても、御手洗が埋め立てにより形成される江戸中期以前は、海岸線がここまであったことが伺われます。 しかし、この石垣に関する記録は一切なく、満舟寺境内の整備に伴って築かれた可能性もあります。
ちなみに、戦国時代中期、三島水軍の領袖であった大三島の大祝 (おおほうり) 氏は、周防国守護大内氏の侵攻を受け、1541 (天文10) 年と1544 (天文12) 年、御手洗沖を主戦場に度々海戦を行っています。こうしたことからも、この地になんらかの水軍拠点があったことが想定されます。

見所

戦国時代の築城術の特徴である「乱れ築き」と呼ばれる石積みが見事です。この規模の巨大な石垣は、安芸灘島しょ部においても希有な物件であり、1999 (平成11) 年に市の有形文化財に指定されています。
石段の脇には、戦後のものと思われる旧御手洗小学校の案内看板が残っています。