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星野文平碑/豊地区


星野文平碑

由来

星野文平 (1835~63) は、御手洗の医師の家に生まれ、幕府の学問所・昌平校で学んだ後、広島藩学問所の教授として仕えました。
尊皇攘夷思想に影響を受け、脱藩して上京する計画を同志と練るも、露見したため断念します。しかし、1863 (文久3) 年、藩の執政・辻維岳 (将曹) が上京する際、その随行者から一人外されます。これに憤慨した文平は切腹を図りますが、幸いにも一命を取り留めて、上京を許されます。
当時、軍備の近代化を進めていた広島藩は、蒸気船を購入するために、勝海舟との交渉に臨んでいました。文平は、命じられて伏見の勝の元に向かう途中、自刃未遂のときの傷口が悪化し、任を果たせぬままに29歳で亡くなりました。

見所

この碑は、地元の偉人の顕彰碑として、旧御手洗小学校 (現在のふるさと学園) に建立されたものです。
星野文平は、維新後、勤王の志士として讃えられ、1891 (明治24) 年に明治政府より正五位を授けられました。京都東山の霊山護国神社に祀られている志士のうち、広島藩出身者3名の中の一人です。