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満舟寺/豊地区


満舟寺

由来

縁起によれば、平清盛公が上洛の途中にこの付近で嵐に遭い、一心不乱に祈りを捧げたところ晴天となったため、そのお礼として草庵を建て、行基作の十一面観世音を安置したとされています。
また、江戸時代の伝承によれば、ここは松桂庵と呼ばれていて、豊前国小倉の浄土宗光明寺観音像のうち一体が、わけあってこの庵の安置されていました。ところが、庵が大破したため三原屋権右衛門に預けられていたところ、それが夜な夜な光明を放つため、庵を再建したということです。
確実な記録によれば、1718 (享保3) 年に観音堂が建てられ、各地からの回船の寄進により18世紀半ばまでに寺としての規模を持つまでになりました。その後、豊田郡納所村(現三原市)にあった浄土宗松桂庵の寺号を貰い受け、真言宗への転宗と寺号の改称の許可を得て、正式な寺として認められています。

見所

境内には、本堂のほか、観音・住吉・金毘羅の神仏を祀った三社堂、鐘楼が残っています。
本堂の額は、琉球使節に随行していた中山の楽師・梁光地が揮毫し、それを住持と伊予俳壇の指導者・栗田樗堂 (くりたちょどう) が掲げたものです。また、本尊の「十一面観音菩薩立像」は奈良時代の高僧行基作と伝えられる秘仏で、三十三年に一度ご開帳されています。
敷地内にはほかに、芭蕉の句碑「誰彼塚 (たそがれづか)」、栗田樗堂の墓、全国でも珍しい「亀趺墓 (きふばか)」などが見られます。