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大東寺/豊地区


大東寺

由来

御手洗にあった「登光寺」と「隆法寺」という2つの浄土真宗の寺院が1942 (昭和17) 年に合併した際、時の大東亜戦争に因んで寺号が付けられました。
前身である「登光寺」は、新屋吉左衛門の弟吉三郎が出家して裕円と号し、1724 (享保9) に庵を結んだことに始まります。この地は、かつて「唐物抜け荷番所」が設けられていた場所で、その後空き地となって芝居興行等に利用されていましたが、満舟寺の近くに本格的な芝居小屋が設けられたため、1825 (文政8) 年に本堂が建立されました。
一方の「隆法寺」は、19世紀のはじめ頃、久比地区の称名寺の隠居寺として設けられたことに始まります。その後、1844 (明治17) 年に若胡子屋を買い受けて本堂に転用していたそうで、合併後の若胡子屋は、御手洗地区の公民館に再度転用されています。

見所

本堂には、京都の彫刻師が彫ったという、3羽の「迦陵頻伽 (かりょうびんが)」 (極楽に住むという上半身天女の鳥) と阿吽の竜の欄間があります。 いずれも彩色を施していない、ケヤキの一木造りです。
また、葺き替えられる前の格天井には、寄進者の名前が記された短冊と花が描かれており、遊女の源氏名をとどめた天井絵3枚が本堂内に展示されています。
なお、境内には、樹齢300年、幹周り5mの大クスノキがそびえています。