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樗堂墓/豊地区


樗堂墓

由来

正岡子規が「過去四国一の俳人」と賞賛した栗田樗堂 (くりたちょどう) は、1749 (寛延2) 年に松山城下の酒造家に生まれ、藩の町方大年寄を長年勤めました。若年の頃から俳諧に親しみ、二度に渡って小林一茶の来訪を受けるなど、伊予俳壇の中心的存在でした。
1802 (享和2) 年に隠居剃髪し、公務を逃れて風雅の道に専念するため、1807 (文化4) 年頃、御手洗へ移り住みました。当地では、恵美須神社付近に「二畳庵 (にじょうあん)」という居を構えて、そこで全国の俳友と交遊しました。
樗堂に指導された御手洗の俳人たちは、自分の句集を世に送り出せるまでに成長し、樗堂の代表句集「萍窓集 (へいそうしゅう)」や追善集「都々鳥集 (つつどりしゅう)」の編集にも尽力しました。
樗堂は1814 (文化11) 年に65歳で逝去しますが、一茶へ送った絶筆の書簡が、そのまま一茶の作品「三韓人(さんかんじん)」に載せられています。樗堂の死は、御手洗の人のみならず、全国の俳人にとっても大きな悲しみでした。

見所

満舟寺鐘楼横の墓所に、烏帽子 (えぼし) 型をした自然石の墓があります。墓に彫られた字は、樗堂本人のものであるといわれています。