幕末期、広島藩は薩摩藩と秘密貿易を行い、1863 (文久3) 年に御手洗がその貿易港に指定されました。そのときの広島藩側の担当役人・船越寿左衛門が、1871 (明治4) 年に社殿を寄進し、満舟寺三社堂に安置されていた天神像を移したのが始まりで、その後、1917 (大正6) 年に現在の規模の天満宮に再建されました。
そもそも天神像を祀ることになったのは、社殿の裏手にある「本川の井戸」に由来します。江戸時代に記された伝承によれば、神功皇后が朝鮮出兵に赴く際に立ち寄り、この井戸で手を洗ったことから、この地を「御手洗」と呼ぶようになったとのことです。
しかしその後、菅原道真が太宰府へ左遷されたときに立ち寄り、この井戸で手を洗ったという伝承が主流となり、「本川の井戸」の側に天満宮が建立されたというわけです。
境内は、「天神桜」の愛称で親しまれた桜の名所となり、花見の季節には、管弦の調べや芸子たちの笑い声で賑やかだったそうです。
境内には、菅公の歌 「我たのむ 人をむなしくなすならば 天が下にて名をやなかさん」を刻んだ、自然石の大きな歌碑があります。
また、明治期に 「自転車での世界一周旅行」を日本人で初めて果たした、当地出身の冒険家・「中村春吉」の碑もあります。
社殿の右手奥に進むと、「菅公手洗いの井戸」があり、正月には必ずこの若水を汲んで、書き初めを行ったそうです。