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旧金子家住宅/豊地区


旧金子家住宅

由来

当主金子氏 (屋号三笠屋) は、御手洗町が開かれた当初からの居住者で、町年寄・庄屋役を勤める有力者でした。文人墨客との交流も深く、広島藩の代表的な儒学者頼杏坪が金子氏の別荘で「松月楼記 (しょうげつろうき)」をしたためています (別荘は恵美須神社の側にありました)。
この金子邸は、幕末の政治舞台としても知られています。1867 (慶応3) 年9月に、薩摩・長州・広島の三藩による倒幕同盟が秘密裏に結ばれました。10月に徳川慶喜が大政奉還したことによる政治情勢を受け、翌11月、薩摩・長州の両藩が上京出兵を計画しました。
その際、広島藩は長州軍を大阪まで護送する任務を引き受けることになり、両軍は御手洗で落ち合いました。広島藩諸兵総督・岸九兵衛と長州藩家老・毛利内匠は、この金子邸で会談し、大阪における行動の役割分担を協定しました。これが「御手洗条約」と呼ばれているものです。
こうして、王政復古のクーデターの断行、翌年の鳥羽・伏見の戦いへと、一挙に時代が開かれていったのでした。

見所

数寄屋風書院造りの主屋は、2011 (平成23) 年に市の有形文化財に指定されています。その中央部にある茶室は、全国で唯一現存する、江戸期の上田宗箇流の茶室といわれています。
平成29年度10月に主屋の修復工事が完了し,不定期に特別公開を開始しています。